漢文へのアプローチ

はじめに──この授業の目的

文部科学省が平成三〇年に告示した「高等学校学習指導要領」の国語編を見てみると、国語の一科目「言語文化」の「内容」の(2)には、「我が国の言語文化に関する次の事項を身に付けることができるよう指導する」として、「ア 我が国の言語文化の特質や我が国の文化と外国の文化との関係について理解すること。/イ 古典の世界に親しむために,作品や文章の歴史的・文化的背景などを理解すること。/ウ 古典の世界に親しむために,古典を読むために必要な文語のきまりや訓読のきまり,古典特有の表現などについて理解すること。」の各項が掲げられている。また、「古典探求」の「内容」にも同様に、「ア 古典などを読むことを通して,我が国の文化の特質や,我が国の文化と中国など外国の文化との関係について理解を深めること。/イ 古典を読むために必要な文語のきまりや訓読のきまりについて理解を深めること。/ウ 時間の経過による言葉の変化や,古典が現代の言葉の成り立ちにもたらした影響について理解を深めること。/エ 先人のものの見方,感じ方,考え方に親しみ,自分のものの見方,感じ方,考え方を豊かにする読書の意義と効用について理解を深めること。」が掲げられている。漢文が「我が国の文化」なのか「外国の文化」と見なされているのかはっきりしないが、こうした科目の中に漢文教育が位置付けられていることから見るに、文部科学省の考える漢文教育の目的とは、高校生に、われわれ(我が国)の「伝統と文化」であり「古典」である漢文に親しませ理解を深めさせる、ということであるようだ。

しかし、ところで、そもそも「漢文」とはいったい何なのだろうか?―試しに『広辞苑』(第三版)を見てみると、「①中国古来の文章・文学。現代中国語文に対していう。②わが国で、かな交じりの和文に対して、漢字だけで書いた文章・文学。」と定義されている。しかし、これはあまり正確とは言えない。①の定義に従えば、古い中国語文はみな「漢文」ということになるが、例えば、『朱子語類』や『水滸伝』の文章は「漢文」か、と言われると疑問が残る(これらの文献には口語表現が多く含まれる)。また②の定義によると、わが国で漢字だけで書かれた文章は「漢文」ということになるが、万葉仮名で書かれた『万葉集』はどうなのか?―古典中国語の文法を無視して書かれた「変体漢文」はどうなのか?―といった疑問が生じる。

単純に言ってしまえば、「漢文」とは、「古代中国で生まれた〈漢字〉を用いた、文章を記述するための言語、あるいはそれによって書かれた文章」ということになるだろう。ここでは、「文章記述用」というところが重要で、漢字だけで表記される言葉ではあっても、話し言葉はふつう漢文とは呼ばない。ただし、文章記述用の言語であっても、文法構造などは「中国語(現代口語)」のものとある程度共通している。つまり、中国語の文語(古文)というふうにイメージして良いだろう。また、中国で生まれたものではあっても、中国語と呼んでしまうのは少し問題であり、漢文は日本を含む東アジア地域で広く用いられている(いた)。古く日本語は文字を持っていなかったため、何かを書き記す場合、漢文に頼らざるを得ないという事情があったのだ。とすれば、その時書かれた文章は「外国語」だと言ってしまって良いのだろうか?(さらに、例えば、現代日本で使用されている漢字を中国文字と言っても良いものだろうか?)これは結構微妙な問題だと言える。

そういうわけで、先に引いた学習指導要領では、漢文を「われわれ(日本人)の古典」として位置づけようとしているのだろう。しかし、日本語の表記体系が確立した、現代日本語の環境に慣れ親しんだ現代の日本人にとっては、漢文はやはり外国語と呼ぶべきものである。学習指導要領の続きには、古典教育の具体的内容が箇条書きにされているが、その「古典B」の内容の(1)のアには「古文や漢文に用いられている語句の意味,用法及び文の構造を理解すること」、ウには「古典を読んで,人間,社会,自然などに対する思想や感情を的確にとらえ,ものの見方,感じ方,考え方を豊かにすること」とある。つまり、漢文の語句の意味や語法を理解したうえで作品を味わいましょう、ということなのだが、高校での限られた古典教育の時間内でこのような力を養うことはまず無理であろう。あるいは、この「漢文学a・b」の授業に対してそのような力の養成を期待する人がいるかもしれない。が、しかし、予め断っておけば、それもやはり無理である。漢文に限って言えば、文法構造を理解した上で作品を味わうというレベルは、実際のところ、中国学の専門課程のある大学で4年間の学習をみっちり積んだ人がどうにか到達できるかどうか?というくらいのものなのである。外国語の、しかも古文を理解するには、それだけ困難があるということなのだ。

この授業は、漢文資料を扱った研究をしようと思う人、あるいは将来、漢文教育に携わろうという目標をもった人を対象に、漢文を外国語としてとらえた上で、まずはその文法についての知識や、語句の意味の調べ方など、基本となる初歩的な知識・技能を身につけてもらう、ということを目的としている。だから、この授業で一通り学習したからといって、すぐに漢文がスラスラ読めるようになるというわけではない。そうなるためには、この授業で身につけた基礎知識を踏まえた上で、さらに数多くの「漢文」の原文に触れてゆくことが不可欠である。この授業はいわば「漢文世界の入口に立つためのパスポートを(あるいはナビゲーションシステムを)手に入れる」ことを目指したもの、と言えるだろう。

このテキストの前半では、文法に関する知識を扱い、各課ごとに項目を立てて文法事項を解説しながら、練習問題を通じて知識の定着をはかってゆく。後半では、書き下し文から漢文を復元する「復文」の練習を行なったり、実際に一五〇~二〇〇字程度の長さの物語文を読み解いたりしながら、文法知識の一層の定着を目指す。なお、本文中の文法事項の説明は、おおむね『全訳漢辞海』(三省堂)の附録「漢文読解の基礎」、および董治国『古代漢語句型分類詳解』に準拠しているが、全体の構成は独自に組み立ててあり、また、用語等も差し替えたものがある。