漢文本来の姿は、左図のような、ひたすら漢字が連ねられた、句読点も何も付いていないものである。
このような原形そのままの漢文を「白文」という。しかし、このままではさすがに読みにくい。そこで、中国でもやがて文章に句読点などの記号を付けるようになった〔左図〕。句読の付け方としては、一行の中(字と字の間)に一文字分のスペースを取って割り込ませるようにはせず、図のように、句が切れる最後の字の右横または右下に圏点もしくは黒点を付けるのが一般的である(句点と読点の区別をしない)。
さらに近代以降は、西洋言語の記号をも取り入れて、各種の符号(「標点符号」と称する)を文章に施すようになり、古典文も含めて、活字化する際にはそのような符号を付けるようになった(そのようなテキストを「標点本」という。〔左図〕)。標点符号における句読点も、初期は図のように字の右に付けていたが、現在は日本の印刷物と同様に字間に割り込む形で付けられる。標点符号には、句読点や引用符号(「」)の他に、図にあるような固有名詞を表す傍線(人名・地名)、波線(書名・作品名)も含まれる。
一方、日本では、一般的には漢文を訓読する形で受容していたので、句読点の他に、訓読にあわせた読み方を指示する記号をも付ける方式がとられた。この記号が訓点(返り点)で、これを付したテキストを「訓読本」と称する〔左図〕。主に江戸期に日本で出版された漢籍は、訓点付きでないテキストも含めて「和刻本」と称される。
日本には、漢文を訓読という独特な翻訳法を用いて読んで来た伝統がある。訓読とは、漢文を「書き下し文(読み下し文)」という日本文に変換するということである。つまり、漢字で書かれた漢文に対して、それぞれの漢字(または熟語)に日本語の語彙を当てはめ、その上で日本語の語順に置き換えて読んでゆく、ということだ。
「日本語の語順に置き換える」とは、例えば、漢文中のどの語が述語でどの語が目的語かを解析した上で、漢文の「述語→目的語」という語順を、日本語の「目的語→述語」という語順に合わせて位置を逆転させる、といった作業をいう。このとき生じる語順の逆転を「返読」(「返り読み」)と称し、返読の仕方を指示するための記号を「返り点」というのである。
また、「漢字(または熟語)に日本語の語彙を当てはめる」ことを、漢字を「訓じる」「訓(よ)む」と称する。(日本語に該当する意味の語彙が無い場合は「訓め」ないわけで、その場合は漢字をそのまま音読するしかない。)この当てはめ方は、漢和辞典に登録された、いわゆる漢字の「訓読み」として、江戸後期頃までに定着していった。こうして当てはめられた日本語の語彙は、江戸以前にすでに定着していた訓はもちろん、江戸期になって定着した訓でも、当時の言葉(口語)ではなく、江戸時代に典雅な言葉と考えられた古風な文語であった。したがって、現代の日本人が書き下し文を読んで原文のニュアンスまで明瞭に理解できる、といったことは期待しがたい。(さらに、訓読文では時制を無視して、過去のことを述べる文でも現在形で読んでしまうし。)
しかし、漢字と訓(日本語語彙)とをほぼ一対一対応にしたこの「訓読み」システムのおかげで、訓読という翻訳作業においては、訳者によるブレの要素がほぼ完全に排除されることとなった。つまり誰が訳しても(訓んでも)同じ訳文(書き下し文)ができあがるわけである。言わば、訓読とは、コンピューターによる機械翻訳の場合における「中間言語」(語彙は言語間で共通する記号要素と見なし、構造だけを解析、転換して言語間の橋渡しをしたもの)に近い「構造訳」とでも呼ぶべき機械的作業なのであり、そこでの個々の漢字の訓みは、意味解釈の大体の範囲を示しただけだと思っておけば間違いない。このような視点に立てば、訓読という方法は、極めて簡単、かつ日本語の文脈にもおさまりが良い、便利な翻訳法だと言える。
現在用いられているスタンダードな返り点の付け方はだいたい以下のとおり。このテキストでは返り点を付けた「訓読文」は扱わないが、返り点のルールを知っておいて損はない(教職免許取得を目指す人はぜひ知っておくべきである)。自分で本文に返り点を付けてゆけば、訳し方を思い出すのに便利だし、勉強にもなる。