ここからは、実際の文章を自力で読解しながら、これまでに学んだ語法の知識などを確認するとともに、さまざまなスタイルの文章に触れて、それらに慣れて行く、ということを目指してゆこう。この節では、実際の文章を読むに当たって、まずはどのようなところから読解の手掛りをつかんでゆけば良いのか、例文を元にして解説する。次に挙げるのは、明の劉基の寓言集、『郁離子』からの一節である。
楚有養狙以為生者,楚人謂之狙公。旦日,必部分衆狙於庭,使老狙率以之山中,求草木之実,賦什一以自奉。 |
では、まず最初の文から読んで行こう。
まず最初の句には、存在動詞「有」が述語として用いられている。つまり「存在文」である。存在文の構造式は、「主語(場所・範囲)∥存在動詞+目的語(存在するモノ)」であった(第8課を参照)。これに当てはめると、「楚」が場所・範囲を示し、その場所・範囲の中に、「有」の下に置かれた目的語に当たるモノが存在する、ということを記述していることになる。存在文は、文脈の中で未知のものの存在や出現を述べる際に用いられ、したがって、物語などで人物を登場させる時などによく用いられる。
また、句の最後に「者」の字が付いているので、この前の部分が「者字構造」になっているのがわかる。者字構造とは、助詞「者」が語句の下に付いて名詞句を形成するものであった(第7課を参照)。存在動詞と者字構造の組み合わせは非常によく現われる文型である。ここで「有」の下、「者」の前にあるのは「養狙以為生」の5文字の句である。この句の構造を考えてみると、まず「養」は「やしなう」で、動詞に用いるのが一般的。次の「狙」は、これも「ねらう」と動詞に読めるが、それでは「やしなう」とのつながりがうまく行かない。そこで辞書で調べると、「さる(猿)」の意味が見つかる。これで「猿を養う(飼う)」と解釈できる。
次の「以」は、普通は前置詞として用いる語だが、ここでは、後に来ているのが動詞「為」なので、前置詞には取り難い。後のつながりを見ると「為生」となっており、「生となる」とか、「生をなす」などと読めそうである(「為(ため)に生きる」とは読み難い)。そこで「生」を辞書で調べると、名詞で「生計、くらし」の意味があるとわかり、これを採用すれば「為生」は「生計とする」と訳せる。ここで改めて「以」の字を辞書で引けば、接続詞の用法(「…して、それでもって…」の意)もあることがわかり、かくして、「養狙以為生者」は、「猿を飼って、それでもって生計としている人」の意味に解釈できることになる。
二句めは動詞「謂(いう)」が述語になっているが、「A謂之B」の形は見覚えがあるのではないだろうか。判断文の一種で、呼称の表現であった(第7課)。「之(これ)」(対象)と「狙公」(呼称)の二つが目的語になった構造で、「楚の人々はこれ(その人)を狙公と呼んだ」と解釈できる。以上から、第一の文を訳すると、「楚に、猿を飼って生計を立てている人がいて、楚の人々は彼を狙公と呼んだ」となる。
「旦日」は辞書によれば「夜明け」の意。「必」は副詞で「かならず」。「部分」は日本語では名詞で用いる語であるが、副詞の下に名詞が来るのはおかしい。そこで「部」を辞書で引くと、動詞で「わける」の意味があることがわかる。「分」も「わける」意味であるから、「部」も「分」もともに「わける」意味であるとすれば、「部分」を「分ける」と解釈して良いはずだ、となる。(漢和辞典では「部分」に動詞の意味が登録されていないものもあるかも知れないが、実は『漢語大詞典』で引くと、動詞として「部署、安排(配備する、手配する)」の意味が登録されている。)「衆狙」は「多くの猿」。「於」は場所を示す前置詞で「…で」の意。以上を踏まえると、ここまでは、「夜明けには、必ず猿たちを庭でグループ分けする」と解釈できる。(直前の「狙公」が主題であることが明らかなので、主語は省略されている。)
次の句には使役の動詞「使」が用いられている。使役の場合は「兼語文」となるが、その構造式は「主語∥使役動詞+兼語∥動詞(句)」であった(第8課)。ここでは、兼語が「老狙」(年取った猿)、兼語の後の動詞が「率」(ひきいる)、その後の「以」は、これまた前置詞には取り難いつながりなので接続詞と見れば(「以之」を「これをもって」と解すると、その後の「山中」につながらない)、「之」は、場所目的語「山中」をとる動詞「ゆく」だと推測される。ここまでを訳すれば、「(狙公は)老いた猿に、(猿たちを)率いて山に行かせる」となる。
その次の句は「草木の実を求める」と取れる。最後の句は、「賦什一」がわかりづらそうだが、辞書を引けば、「賦」には「税金を割り当てる、取り立てる」、「什一」には「収穫の十分の一の税」という、互いに対応する意味のあることがわかる。これにより、「収穫の十分の一を税として割り当てる」と解釈でき、「以」は接続詞(前と同様)、「自」は副詞で「みずから」、「奉」は動詞で「献上する」の意味だと解すれば、合わせて「収穫の十分の一を税としてみずから献上する」という訳になる。「草木の実を求める」や「献上する」行為の主体は、狙公ではなく猿だと思われるので、この部分にまで使役が掛かっていると解するのが良いだろう。
すなわち第二の文は、「(狙公は)夜明けには必ず猿たちを庭でグループ分けし、老いた猿に群をひきいて山の中へ行って草木の実を採らせ、その十分の一を税としてみずから献上させた」という訳となる。
以上、原典ではわずか一行に満たないような短い文章でも、解釈する上での思考過程を細かく書き記すと右のようになる。どの語が述語であるのか、また、例えば述語が動詞の場合ならば、それが存在動詞であるか使役動詞であるかによっても文の性質や構造が違って来るし、ある字を前置詞と解するか接続詞と解するかによっても意味が変わってしまう。つまり、文の構造を捉えるための手掛りとなる言葉を探り当てることが非常に重要なのである。
左に『郁離子』の文章の続きの部分を掲げておくので、ぜひ読解にチャレンジしてみていただきたい。